阿弥陀寺
誠会新撰組 斎藤 ーと戊辰戦争での会津藩戦死者が眠る 阿弥陀寺
阿弥陀寺(あみだじ)は、会津若松市内の七日町に所在する浄土宗寺院で山号は正覚山といいます。
慶長8年(1603年)蒲生秀行公の時代に、下野国真壁郡大沢円通寺の末寺として、安積郡郡山の善導寺住職であった良然上人によって開山されたとされています。
良然上人が、東山温泉で湯治をしていたところ、蒲生秀行公の家臣 倉垣修理が開山を依頼しました。
以後、浄土門研修道場として栄え、城下でも有数の大寺院に発展しますが、正保2年(1645年)の大火災で堂宇の全てを焼失してしまいます。
更に追撃ちをかけるように火災に遭い、幕末の頃は復興も困難な状態でした。
戊辰戦争後の明治3年(1870年)に鶴ヶ城の小天守にあたる御三階が移設され、これを仮本堂として使用していたそうです。
その後、浄土宗開宗800年記念の際に改築、堂宇が建立され、現在に至っています。
御三階の外観は3階建の建物に見えますが、内部は4層になっており、ここで秘密会議等が行われていたと伝えられています。
明治元年の戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は西軍の命で放置されたまま、さわることを許されず幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのは、翌2年2月のことでした。
埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、戊辰戦争で亡くなった会津藩士戦死者の内、1281名の御遺体が埋葬されています。
はじめ、”殉難之霊”と記された墓標が立てられていましたが、これを新政府側に咎められて撤去、”戦士墓”として暫くの間弔われていたそうです。
現在の墓標は明治6年(1873年)に建立されたもので、”明治戊辰戦役殉難者墓”と刻まれています。
そして、阿弥陀寺には新選組 三番隊隊長である斉藤一の墓もあります。
斉藤一は、弘文元年(1844年)御家人の父、山口祐助・母マスとの間に生まれ、初名を山口一、のちに斉藤一に改めました。
文久3年(1863年)、壬生浪士組後の新選組に参加します。三番隊隊長として活躍し、沖田総司、永倉新八と並ぶ剣客で剣術師範も務めたほどです。有名な池田屋事件にも参戦しています。
その後、伊東甲子太郎らが、御陵衛士を拝命し、新選組から分離した時に伊東に同調して離脱、しかしこの離脱は局長の近藤勇の密命によるものとも言われ、油小路事件で伊東らが暗殺された後、新選組に復帰し山口二郎と改名しています。
鳥羽伏見の戦い等を経て会津若松城下に入り、負傷した土方歳三に代わって新選組隊長となり、会津戊辰戦争を戦いました。
しかし西軍が城下に迫った時、 「会津候(松平容保)あっての新選組、会津を見捨てることは出来ない」と隊士十余名と会津に残り仙台へ向かった土方と別れます。会津藩降伏後は一瀬伝八と名乗り越後高田に幽閉されました。
明治3年、斗南へ移る際に藤田五郎と改名、その後上京し警視庁に入り、容保の媒酌により会津藩士高木小十郎の娘時尾と結婚します。
警視庁においては西南戦争へ抜刀隊として参加。抜刀斬り込みの際、銃撃戦で負傷しますが、その天才的な剣技と指揮力で、薩摩兵を圧倒。大砲2門を奪取するなど、当時の新聞に報道されるほどの活躍しました。
その後東京教育博物館等へ奉職し、大正4年(1945年)9月28日、胃潰瘍のため死去。床の間に座ったまま往生を遂げたと伝えられています。享年72歳。
後半生を会津人として生きた本人の希望によりここ阿弥陀寺に眠っています。